受賞者インタビュー
TCAA 2022-2024
サエボーグ
サエボーグは、半分人間・半分玩具の不完全なサイボーグであるオルター・エゴを名乗り、自身の皮膚の延長として、自作のラテックス製のボディスーツを装着したパフォーマンスを展開する。東京で25年以上にわたり開催されているフェティッシュ・パーティー「デパートメントH」(通称:デパH)で2010年に初演して以来、国内外の国際展や美術館で発表を続けてきた。
巨大化したドールハウスのような牧場の舞台装置の中で、雌豚や害⾍などをデフォルメした着ぐるみに身を包んだパフォーマーが、家畜の出産、授乳、屠畜、ストリップといった「役割」を演じる。人間中心の食物連鎖の最底辺で、部品のように生産管理され消費されながら、明るく生きる生き物たちの世界を展開してみせる。人類と家畜の長きにわたる関係をカリカチュアライズしたその光景は、人間の無邪気な残酷さや傲慢さのみならず、実社会において何層にも連鎖する「役割」や「属性」に根づいた搾取構造を想起させ、痛烈な挑発と批評性に満ちている。
海外の人々から、特にパフォーマンスを見たことのない人からも、インターネットを通じてビビッドな反応が寄せられるそうですね。私が何年も前にInstagramとFacebookにアップしたサエボーグのパフォーマンス動画も、いまだに全く知らない外国人からのシェアやコメントがあります。
パフォーマンスを見にきてくれた人がSNSにアップする動画って、参加者が個々に切り取った目線ならではのライブ感があってすごくおもしろいんですよ。海外からの出演のオファーのうち90%以上は、SNSで拡散された投稿を見たことをきっかけに私のことを調べてくれたキュレーターからです。ちゃんと実現したものは実際のショーを見てくれた人からのオファーと半々くらいですけども。
ヴィジュアルのインパクトをきっかけに拡散された場合、サエボーグが作品に込めているコンセプトは思いどおりに伝わっていますか? 中でも牧場の屠畜をモチーフとした作品に対して、畜産や肉食が倫理面や環境面で見直されている現在、どんな反響がありますか?
日本で発表し始めた頃は、サブカル悪趣味路線と読み解く人も多かったですね。海外からの反応は真逆で、私が動物愛護系かヴィ―ガンだと信じ込んでいる人が多いです。おもちゃみたいな着ぐるみを作っているので、動物たちがおもちゃのように扱われることに反対する作品だと思われがちです。「動物の命の大切さを子どもにもわかるように訴えていて偉い!」とか言われたり。「ヴィ―ガンでしょ?」と聞かれたりもしますが、西洋と日本では動物への考え方が少し違うように見えますので、その言葉どおりの意味での答え方は出来ません。また、クラシズム(階級差別)の歴史もあるので、二元論で答えることはできません。私はそもそもヴィーガンのことを考えて作品を作り始めたわけではなく、制作を続けるうちに、動物福祉にも興味を持ち始めました。まあズレていることもありますが、観客の読み解き方から新しい目線をもらうことも多くて、作品の可能性が拡張されていくという意味ではそれも悪いことじゃないのかなと思ってます。
野生動物は自然界の食物連鎖というサイクルの中で生きているけれど、他の動物を食べるために生産・飼育する畜産というシステムは人間社会だけのものだと思います。動物福祉を含めて、人間と動物の関係性について問題意識を持つようになった経緯について教えてください。
人間と家畜の長い歴史の中で、家畜とのコミュニケーションを見つめ直すことで自分をデザインし直すことが私の作品のコンセプトです。デザインという言葉を、自分の価値観や生き方、ライフスタイルを構築し直すという、広い意味で使っています。2019年にタスマニアのミュージアム・オブ・オールド・アンド・ニュー・アート(MONA)が年に一度開催する「Dark Mofo」というイベントに招待されたのですが、前の年に招かれたのがヘルマン・ニッチュだったんですね。彼のパフォーマンスは動画で見ましたが、悪趣味とは感じず、祝祭的で好きでした。ところがオセアニアの国々では動物愛護の意識がすごく高いので、彼の豚の血を使ったパフォーマンスが炎上したんです。それでもやはり過激なショーはほしいということで私が招かれたのかなと。現地の新聞記事ではよく私とニッチュが比較されていて、ニッチュのパフォーマンスは退屈で仕方がなかったと嫌味を書かれていました。それに比べてサエボーグの作品は本物じゃないからみんなも安心して大丈夫!みたいな。
タスマニアの主催者たちは、ニッチュとサエボーグの両者の姿勢を評価しつつ、それぞれの方法論に対しては批評的に比較しているのかもしれませんね。
この「Dark Mofo」というイベントは、タスマニア入植者がアボリジニをハンティングで虐殺していた悪しき過去をテーマにしているように見えました。自分たちの原点にある罪悪を見つめ直すために、あえて過激でハードコアなパフォーマンスを開催し、ハンティングが行われた道を夜間に歩かせるコースを作る。この土地はアボリジニのものですと宣誓していて、その意識の高さは素晴らしかったですね。
日本とは違う概念や思想にも出合ったと思いますが、この海外での体験からどんな創作の意識やモチベーションを得られましたか?
タスマニア滞在中に行くように勧められたのが、ボノロンワイルドライフ自然保護区(Bonorong Wildlife Sanctuary)でした。現地では道路脇に延々と車にはねられたカンガルーやワラビーの死体があるんです。その動物保護施設では車に轢かれた動物をレスキューして、怪我を治療しながら飼育しています。森や山に帰れるくらいに回復した動物は野生に戻されるけど、障害を負った動物はそこで生かされている。酷い目にあわせた人間を恨んでいるかと思えば、そこにいる動物たちは逆に人間を接客してくれるんです。入場料の割にちょっとこれは仕事量多すぎないか?とTシャツとかチャリティグッズを買いまくりました。あの子たちの助けにならなきゃって、人の情を促すパワーにすごいポテンシャルがある。障害を持つ動物たちをケアするつもりで行ったら逆にケアされたという体験で気づきを与えられました。なので、同年「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」で上演した『House of L』では、観客が家畜たちの世話をする設定ですが、家畜たちはコンパニオン・アニマル的にふるまって接客します。
野生動物と家畜の違い、さらには家畜とペットの違いについても考えさせられる作品です。
リサーチで屠畜場を見学させてもらうことがあるんですが、実際には屠畜する前の動物と一緒に過ごす時間がすごく長いです。豚を世話している間は旅行にも行けないし、飼い慣らしているようで実は飼わされている。東京大学総合研究博物館で開催された特別展示「家畜 ―愛で、育て、屠る―」展のイベントで聞いた話ですが、家畜というと、資本主義システムの合理性の問題の話と結びつけてしまいがちですが、世界の牧場をまわった結果、合理(お金)ではなく、なぜ飼っているのかがわからない家畜がたくさん住んでいると言うんです。家畜の定義が生殖をコントロールすることだとすれば、ペットも家畜に含まれるわけですよね。コンパニオン・アニマルと呼ばれるような動物たちは感情労働しているんです。ケアという有用性のある仕事という意味では、人間も同じようなことをしています。ペットだって可愛くて生きてるだけで仕事しているんだよって。だって、ただいてくれるだけでいいじゃないですか。何もしなくてもペロペロって舐めてくれるだけで、この子のために仕事頑張ろうかな、みたいなのあるじゃないですか。例えば、主婦の家事は仕事のうちに入るのかとか言われますよね。家事はわかりやすい労働ですが、明日への活力を養わせるために家族をケアしたりするという繊細なものも含むと思うんです。みんな労働してるんです。
サエボーグのパフォーマンスは、「デパートメントH」というフェティッシュ・パーティーの主軸である身体改造というコンテクストから出発しています。着ぐるみには他の素材もあるのに、なぜラテックスだったのですか?
人工的で可塑的なマテリアルによって自分の身体を変えられるところに惹かれます。脱いだら元通りになるから、いくらでも多様に変換することができる。ラテックスのいいところはプレッシャーです。キュッと締まって大量の汗が出て、身体に直接のプレッシャーが与えられる実感が持てないと着た感じがしないんです。身体をいじって自由になりたいと思うからラテックス・スーツを着て、心が解放された結果、身体がもっと不自由になる。私のスーツは一人では着られないから、常に誰かのヘルプが必要になります。動きが不自由になってあちこちにぶつかるので、着てからもケアが必要です。
素材そのものがコンセプトに直結していることがユニークです。フェティッシュの世界で遊びながら現代美術のステージに来た作家の中でも、サエボーグや宮川ひかるの作品世界には、フェティッシュでない人の心も掴む痛快なアイロニーがあります。
身体拡張の欲望は現代美術にも共通するもので、ステラークのようなすごいアーティストもいますよね。デパートメントHに遊びに来ているお客さんにもアートとしても評価されそうだな、と思うような方はたくさんいますけど、そういう人たちは自分が好きでやっていることに対して批評されたり、他人からとやかく言われたりしたくないと思っている方が多いように見えます。ですので、その違いだと思います。私は逆に批評されて嫌な思いをしたこともないし、むしろ気づきを与えてもらっていることが多いですね。
今回の選考のプロセスについてお聞きします。コロナ禍も少し落ち着いた時期で、日本にいる選考委員はスタジオ訪問、海外在住の選考委員はオンラインでのスタジオ訪問を行ったそうですね。
前半30分はプレゼンテーションで、熱弁を振るってしまいました。英語で頑張ろうと思って、台本を用意して、友達にオンラインでレッスンをお願いして練習しました。後半の質疑応答は即興性が必要なので通訳をつけてもらいました。質問されたことにその場ですぐには答えられなくても、考える機会を与えてもらったと思うことが大事だと思いました。アワードというと一般的には、偉い立場にいる人たちが一方的に審査するものだと捉えがちだけれど、TCAAには一緒に作り上げていこうという精神がありますね。大学時代の恩師が受賞したことをとても喜んでくれて、「サエちゃんを選んだ選考委員たち、偉いね」と言うんです。「勘違いしちゃ駄目だよ。どんな目利きが、どういう視点で選んでいるかを常に問われているのだから、実は試されているのは選んだ側だ」と。
その人の見解や意識が露わにされるだけでなく、その後の受賞作家の活動にも並走していく責任があるわけですものね。
その恩師は、油絵科に通っていた大学時代にとてもお世話になったゼミの先生なのですが、強烈な嫌味を言われたこともありました。学校ではキリッと難しい感じで絵画をやっていて、夜になると自分の本気の趣味として、好きなラバーに身を包んでデパHに遊びに行ってたんですね。自分のフェティッシュとアートの世界でやることを分けてたんです。するとその恩師に「サエちゃんは当たり前のようにデパートメントHにラバーを着ていくのに、当たり前にように個展とかはできないんだね。それってデパートメントHを馬鹿にしてるよね」と図星を突かれました。自分の中に、アートの方が特別で、ちゃんとしてなきゃいけないというような気持ちがあることを見抜かれて、くそー腹立つ!と思ったんです。 それをきっかけに、ジャンル分けをしないで、デパHで真剣にやろうと思ったんです。バイトしながら頑張って企画を練って、主宰者にプレゼンしました。好きなことを実現できる場所を確保して、自分の企画で毎年ひとつ新作を出すと決めたんです。それでも私が田舎に帰るたびに、自分の活動を家族に認めてもらえず肩身の狭い思いをして、シュンとした話をすると、デパHの主宰者にはまあ馬鹿にされますね。「そんなことで卑屈になって、君は自分のやってることに誇りを持ってないの?」みたいな。
最後に、受賞後の海外でのリサーチや制作活動について教えてください。
すでに3月にマンチェスターで「Submerge Festival 2022」というイベントでの公演があったので行ってきました。コロナ禍になって初めての渡航です。前にメルボルンのフェティッシュ・イベントに出演した動画をネットで見た方からオファーされたんです。こちらもクィア系のパフォーマンスイベントです。見にきてくれた人たちもみんなノリが良くて。7/10からはシドニーに行ってきます。シドニー現代美術館(Museum of Contemporary Art Australia)で、コロナで延期になっていた展覧会が開催されることになって嬉しいです。前半はインストールやパフォーマンスや、展示のメンテナンスをして、残りの滞在はTCAAの支援を受けてリサーチの期間に充てています。オーストラリアの動物施設や福祉施設の見学などのアレンジをお願いしているので楽しみです。10月にはイギリスに戻ってバーミンガムでパフォーマンス公演をします。その後にヨーロッパを横断してヴェネチア・ビエンナーレなどの国際美術展を見ようと思っています。
サエボーグの創作の原動力となるのは、ステレオタイプな女性像などの固定化されたアイデンティティや自身の身体に対する違和感から生まれる、性別や身体を越境しヒューマニティすら超越したいという強い願望だ。1990年代から2000年代のサブカルチャーと《TOKYOアンダーグラウンド》のシーンを象徴する重要なファクターのひとつだった「身体の拡張」と「フェティシズム」への眼差しをそらすことなく活動を展開してきたその姿勢こそが、生物多様性や共生、ジェンダーやケアにいたる喫緊のイシューに対して、実感にもとづく痛快なコメントを与えている。
パンデミック、戦争、地球温暖化といった生命の危機に直面する時代、サエボーグの牧場のパフォーマンスは、人間がいま自然界のあらゆる同胞との関わりの中でどのように振る舞うべきなのかを、ときに社会実験的視点で示唆してくれる。それは分断と格差が広がる人間同士の関係性の力学にも当てはめることができるのだ。
インタビュー・テキスト:住吉 智恵