Tokyo Contemporary Art Award

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志賀理江子

※本インタビューはオンラインで行いました。

志賀理江子は1980年愛知県生まれ。渡英を経て、独自のアウラを発光するようなイメージを通じて、人間の普遍的な営みを探求する写真作品で高く評価されてきた。
2008年からは宮城県に移り住み、その地に暮らす人々や風景との出会いを通して、社会と自然の関わり、死の想像力から生を思考すること、何代にも溯る記憶などを題材に制作を続ける。
2011年、東日本大震災で被災した志賀は、沿岸部の津波被害による社会機能の喪失や厳格な自然の法則を身をもって経験した数少ないアーティストだ。その後、戦後日本のデジャヴュのような「復興」の気運に圧倒される経験を経て、志賀の制作活動は人間の精神の根源をより深く追及する方向へと向かった。
本アワードでは、制作や現実に対して思慮深く真摯に向き合う志賀の態度と、写真というメディアの性質と人間の精神性との等価性を探求し、写真と身体のあり方を横断する視点が評価された。

Reborn-Art Festival 2021-22では今回、野外展示のスペースをまるで塹壕のように掘りこみ、牡蠣殻や鹿の骨などを使った大規模なインスタレーションを展開されましたが、2019年開催の前回から、どのようなモチベーションがあったのでしょうか?

「前回あの場所で展示をしたとき以来、鹿猟師の小野寺さんに牡鹿半島について話を聞かせていただいています。小野寺さんが運営するフェルメントという鹿肉解体処理施設は、獣害駆除で撃たれた鹿を解体して、従来なら産業廃棄物としてドラム缶に詰められて処理される生き物の体を人間が食べるものとして食肉加工する活動をしています。
小積浜に近いこの場所は、震災のときは津波の塩水が入ってきたところで、地面の下には民家の瓦礫も残り、排水が難しい土壌です。牡蠣殻を混ぜ込めば少しは土壌改良になるという話を聞いて、作品を制作する機会に大量の牡蠣殻を運んできました。牡蠣も同じように、自然物であるにもかかわらず養殖で育てられて、残った殻は産業廃棄物として指定されています。
Reborn-Art Festival 2021-22ではスピンオフ企画として1年以上前から映像作品の制作も開始しました。長期的な土壌改良のためになぜビオトープを作るのか、そこでどういう生き物の循環が行われるのかということを映像にしています。
牡鹿半島は、2022年度以降の再稼働が予定されている女川原発や、2019年に調査捕鯨から商業捕鯨に変わった捕鯨基地の鮎川港があったり、沿岸部には新しい防潮堤も次々建てられ、さらに女川原発再稼働のための復興道路と呼ばれる避難道も建設されて、状況は凄まじく変わって行っています。そういうさまざまな現状を見てもらえる地図も展示しました。
ここは自分が日々生活をおくっている場所(スタジオ)から1時間半の場所で、牡鹿半島という土地が引き受けている現実は私自身にも深く関係しています。参加メンバー全員がその場所と関係を持って、小野寺さんに学んで、自分たちの生活も変えていきたいという強い気持ちが動機のひとつでした」(志賀)

志賀さん自身のスタジオを日曜日だけ開放したり、オンラインでラジオを始めたりといった新たな取り組みもスタートしています。何かを教えられたり、知識を取りに行ったりする必要のない、ただそこを訪れているだけで何かが入ってくるような場所を意図して、特別なプログラムは用意しないと聞きました。

「私には小学1年生の子がいますが、コロナ以前からあまりいろんなところに行きづらいことや、近所の子どもたちの遊び場がなかなかないということがありました。doing nothing but studio openというオープンスタジオにしたのは、どなたでも入れます、何時間でもいてくださいと、私がもし言われたら嬉しいと思うからです。トークやレクチャー、ワークショップとなると、人は何かを共有しようと能動的に動きますが、ただそこで時間を過ごすだけで無理なく共有できるものもあるのではないかと思いました。震災後10年で国や市町村がたくさんの伝承館などを作りました。私も震災がきっかけでいろんなことを大きく考え直したのですが、何かに気付いたり考えたりするときのために、静かに開いているスタジオを作ることも10年後の応答として意味があるのではないのかと。オンラインワークショップなどのプログラムは他の曜日にあるのですが、日曜日は何もせず開けます。置いてあるものとか貼ってある写真とか、いろんなものが混在してあるので、それと共に過ごすような場所ですが、見ても見なくてもどちらでもいいですね」(志賀)

志賀さんは震災で恐ろしい体験をしたにも関わらず、その土地に留まり10年間にわたって活動してきました。その背景にはどのようなことがあったのですか。

「震災前から住んでいた集落では年間行事の記録写真を撮るカメラマンという役割を与えてもらっていました。震災の日を境にその集落は住めない場所になり、避難所と仮設住宅に入っていたのですが、やるべきことはたくさんあったんです。約100世帯の家から流出した家族のアルバムのスナップ写真で、拾われて集会所に集められたものを、ほっておくと塩水で劣化してしまうので洗わなければならない。じゃあそれは写真の仕事だから私がやるかと。避難所でずっと報道を見ながら過ごすのは大変つらいことで、それで心を病んだ方もいらしたのですが、私の場合やるべきことが山のようにあって、体を動かすことができたことが逆にありがたくて、とにかく必死にその作業をしました。普段は見たり触れたりできない個人の写真を洗うことになったとき、写真が持っている価値の振れ幅に気付かされました。
津波が押し寄せて全てが水の下に沈んだ光景を見た時、福島第一原発の事故をラジオで聞きながら、瓦礫になった集落を歩いた時、安全・清潔・便利な近代社会が機能しないとはこういうことかと突きつけられた。子供の頃から「自由」を漠然と求めていたけれど、本当の自由に近い状態になることは命の危険と背中合わせだった。でも、それは生きている実感に満ちていました。だから集落から少しでも離れて、安全な場所に暮らしたりしたら精神的にも壊れていたと思います。テレビやインターネット、新聞のみの映像で自分の集落の情報を知ることになって、その情報だけが身体に降り積もっていく状態は相当苦しいだろうなと。社会が機能しない瞬間を経験して、近代とは何なのかを改めて知りたいと思ったし、自分の体を軸に現代を考えたいと思ったんですね。」(志賀)

以前のインタビューで「安全、清潔、便利な住環境に育った私とカメラ機器との親和性がその暴力性において極めて高かった」と発言しています。それでもカメラをツールとして写真に向かっていく制作活動は、何がそのモチベーションになっているのですか。

「10代の思春期の子が、思い通りにいかない現実に憤りを感じて、身体の変化も居心地が悪くて、居場所がない感じがして、ってよくある話ですよね。カメラを持って、目の前の現実に少し手を加えて写してみたら、ちょっといい感じに写った。あ、これが自分の現実だと信じて、その虚像と暴力性に溺れまくる。メディアを利用して、目の前の現実を自分が思うように操作して撮った世界に集中して、快楽を得ていくという、なんて危険な行為だろうと思います。それが作品になるというのを知った時、すごい驚きで、こんな嘘が、と。その行為は気持ちがいいので、いくらでも撮り続けられるけど、その快楽的行為に溺れている状態なので、1枚撮っても、100枚撮っても、何も気づかない、変わらない。
それがかなり気持ちが悪いことだと感じ始め、コントロールしようとしたこと以外の、予期しなかった微かなノイズが写っていることに気づいて。すごく些細なものだったけど、写り込んでしまった現実として見ました。写そうと思ったものより、図らずも写していたものが現実を表していた、という写真のメディア性に向き合い始めました。深く現実とリンクする写真に対して、試行錯誤し続けるような、ミイラ取りがミイラになるような感じかもしれないけども、引き込まれ続けています」(志賀)

震災より以前から、志賀さんの作品は濃密に死を感じさせるもので、畏怖のようなものを感じてきました。都市で生まれ育った作家である志賀さんの人生そのものが変遷していくなかで、作品は一貫して死にフォーカスしていると感じます。

「それも写真のメディア性のひとつだと思っています。写真は目に見えたようには写らない。目に見えないものが必ず写っています。遺影がそうですけど、家族にとっては、その人の身体のように写真を扱うこともあるし、誰だか知らないけれど遠い先祖の、不在の存在を確認するように感じる媒体にもなる。写真に死が内包されていることは(写真のメディア性を)追求していくと必ず行き当たるような気がしています」(志賀)

志賀さんの作品に宿っているものは、個人的な死よりも濃密な、生きていることと隣り合わせにあるものとして炙り出されていた気がします。東京都写真美術館の「ヒューマン・スプリング」は、志賀さんのそれまでの営為が凝縮された作品で、死が襲ってくるような感じがしました。

「「ヒューマン・スプリング」は、自分たちが構えた三脚の前に自分たちが見えないであろうものを、人間には制御不可能な物事を呼び込んでいくような制作をしました。不安とか恐れ、とか、衝動だとかの力、そういうものをどのようにしてカメラの前に呼び込むのか。それには、被写体が何を演じるかを細かく考えながら、一瞬に写り込むようにパフォーマンスを演出するような感じでした。当然そこには自分たちでは感じえないようなことは入っていたはずで、それが死というものを喚起させたのかもしれません」(志賀)

TCAAの選考は前回と同じようにコロナ禍で、特に遠隔地からのプレゼンテーションということで、苦労したことや工夫したことはありますか。

「スタジオまで来てくださった選考委員の方もいて、ありがたかったです。いつもは深く考えずにここにいますが、だだっ広くいろんなものが浮遊しているスタジオでの時間の過ごし方が変化して、言葉を選びながら話すことは時には必要なことだと思いますし、何より選考してくださる方と共有したかった。自分がいま考えていることについて、同じ芸術というフィールドにいる方が何を思うのだろう、と聞きたい気持ちもありました。選考委員のお1人であるソフィアさんから「あなたはサバイバーとしてーー」と言われたのですが、私自身は自分をサバイバーだとは全然思っていないな、とか、そういう感覚の違いや、質問されることで新たに考え直したこともありました」(志賀)

受賞の活動支援についてはどんなことを希望していますか?

「選考の時、6歳の子どもがいるし頻繁には出かけて行けないので、オープンスタジオという形で人をここに迎え入れ、そこで話すことがリサーチになるということをお話しました。震災後10年、まだいろいろなことを悩んでもがいていますし、世界中にある震災後の復興に関係する同じような事例をリサーチに行けたらとも思いましたが、まずそれより先に東北で起こっていることを徹底して通じていたい。
オープンスタジオはずっとやりたかったことなんです。居場所を求めている人にとって、もしかしたらいちばんの救いになるのは「教え」とかそういうことより、ドアが開いている状態、ただここにいていいよという空間なのかもしれない。居場所を見つけることはなかなか難しいことだと思います。お金を使わないと居られない場所ではなく、違うレイヤーの場所があってもいいんじゃないかと。展覧会場+オープンスタジオをさまざまなフェーズやレイヤーで機能していけたらと考えています。そこでどういう言葉が交わされたか、どう現実の見方が変わったか。意識が変化したかということに展示自体の意味があると思っています」(志賀)

東日本大震災からの「復興」を身をもって経験した志賀の関心は、死と喪失や不在、規制と自由、自然界における人間社会のあり方、人にとっての安息の場所といったことに向かった。志賀が実践しようとする誰にでも開かれたオープンスタジオが、現代の社会システムにより精神を抑圧され生きづらさを抱えてきた人たちの状況を、非当事者にも自分事として考えさせる場所としても機能することを期待したい。

インタビュー・テキスト:住吉 智恵