Tokyo Contemporary Art Award

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津田道子

津田道子は、映像というメディアの特性に着目し、インスタレーションやパフォーマンスなど多様な形態の作品を制作してきた。シンプルな構造物が配置され、カメラやスクリーンなどの映像装置が仕込まれた展示空間に足を踏み入れた鑑賞者は、思いがけない視点と時間軸で捉えられた自身の像と出会う。あるいは、自身とパフォーマーとの境界が曖昧になり、虚実が交錯するような体験をすることとなる。
一方では、2016年よりパフォーマンスユニット「乳歯」として、小津安二郎の映画の登場人物の動きを分析し、人との距離や女性の役割に関する問題を可視化するパフォーマンス作品を展開している。

まず、今回のスタジオ訪問(東京都現代美術館の会場で実施)の様子について聞かせていただけますか?

いま取り組んでいるのが、小津映画の空間と生活をテーマにした作品で、自分の振る舞いについて考えるため、制作の一環として金沢市の日本家屋に住んでいます。選考委員から「なぜ小津安二郎やイヴォンヌ・レイナーといった過去の巨匠の作品を介して制作をするのですか」という質問があって、あまり考えてこなかったことなのでハッとしました。TCAAの受賞記念シンポジウムでも見せた自分の子どもの頃の映像資料があるのですが、選考のプレゼンテーションでは見せず、質問にこたえる形で見せたんですね。家族の映像って自分にとっては大きな存在ですが、他人から見るとありふれたものだろうと思って、作品の中で直接使うことはしませんでした。小津の作品に見られる家族の風景や振る舞い、カメラの使い方を間接的に扱ってきましたが、実はそれは全部自分の家族の映像の中にすでにあるんですよね。回りくどいやり方をしていたのは単に勇気がなかったからです。まだやり方は考え中ですけど、堂々と見せる準備が整ってきたことに気づかされました。
別の選考委員の質問でも、「ジェンダーロールについて、社会的な活動として行おうとしているのか、個人的な動機があるのか」と聞かれました。作品ではそれが伝わっていなかったということに気付いて、自分の視点について説明しながら家族の映像をお見せしました。

小津映画の独特のカメラワークは家父長制を前提とする目線ですね。ちゃぶ台の高さからお父さんを中心に撮るみたいな?

それを思わせるものですね。わが家の映像に映っている昭和の家族の風景と小津の風景がつながっていることを自覚していなかった。プレゼンテーション後の質問に応じてこの映像を見せたことでつながりました。「理知的に分析的に制作してきたけれど、感情の部分が見えない」というような選考委員のコメントで私自身にも合点が入った感触がありました。

確かに津田さんの作品を見てきて、その部分はすごく気になっていました。例えば、映像インスタレーションを鑑賞中、見えない相手に自分の行動や意図が見透かされたり、死角を狙われたりするような気持ちになります。「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」の作品では、見通しの利かない日本家屋にカメラやスクリーンが仕込まれていたので特に鮮烈でした。感情が伴わない感じも独特ですが、その効果をどれくらい意図しているのでしょう?

私たちは映像をとおしてしか自分の身体像を客観的に見ることはできないんですね。それも油断して忘れているときに、もしかしてそれ自分?みたいなタイミングで見つけるように、ちょっとズラす仕掛けをしてます。罠を仕掛けてほくそ笑んでるわけではないですが、ゲーム的に楽しむ隙をつくってる部分はあります。映像にはそういうところがあると思います。構造だけで作ることもできるし、感情に触れるようにも作れることをみんな知っている。

知らないうちに撮られたときほど、客観的に見える自分の姿が出てしまう。監視カメラやドライブレコーダーのようですね。その心理効果によって何をあぶり出そうとしているのでしょう?

誰もが自分を客観的に見ることはできないし、客観的に見ているかのように語るけれど実際はできないですよね。だけど、芸術においては、自分について誤認のない発見をすることは可能なことだと思うんです。

インスタレーションの構造自体はシンプルですよね。スペックは違うだろうけど、実験映像として同様のものを作ろうとした人はどの時代にもいたのではないでしょうか。人間の死角については未だ解明されていない部分も多いと思いますが、特にどういうところを見せたいのですか?

ちょっとした振る舞いや歩き方にその人の全てが出ると思います。展示空間ではない場所で、ただ通過する人の無防備な姿を取り込んだ作品もあるんですが、自分の身体的な特徴を発見する一歩前に、自分かどうかを確認するようなところがあって、そこに人の本性が漏れ出てくる。それはかなり開いた気分で鑑賞していないと捉えられない部分なので、何か楽しそうとか怖そうとか遊戯的な気分になるゲーム的な仕掛けを考えるようにしています。身体をどう見せるかを自覚的にコントロールしているプロのダンサーなどに出てもらうとそうはならないですね。

こういった映像メディアが人に与える効果に対するモチベーションはいつ、どのように生まれてきたのですか?

20代後半の頃、映像作品を作りたくて、最初はスマホとか身近にある機器で遊んでいたんです。照明などのスタジオ設備がある環境だったので、セットを立てて、何日間もみっちりカメラと空間の実験をするようになりました。

その環境なら簡単な劇場的な機構も作れそうですね。津田さんは近年、コンテンポラリーダンスのアーティストともパフォーマンス作品を制作していますね。

小津安二郎の映画作品からシーンをいくつか取り上げて、登場人物の動きを「振付」として分析、スコア化、再現、撮影、検証するシリーズでコラボレーションした神村恵さんとの出会いがきっかけです。その後、神村さんのソロ作品の制作プロセスに付き合うことになって、クリエーションのためのワークショップに参加しているうちに、いつの間にか自分も出演することになっていて。それで神村さんとパフォーマンスユニット「乳歯」として活動するようになりました。

神村さんのほか、福留麻里さんとも一緒にパフォーマンスを制作しています。彼女たちがこれまでずっとリサーチしてきた身体の問題と、津田さんが追求しているテーマは近いと思えます。

かなり影響を受けていると思います。ちょうど自分の映像でもフレーム内と観客側をつなぐ仕組みを考えていたので、映像から外へ出て、観客と舞台側との間で時間軸を作るというプロセスはしっくりきました。

先ほどから話題になっている小津映画のカメラフレーム内で「振付された」人物の動きを分析する作品では、ジェンダーロールを可視化しようとしています。昭和のホームドラマの構図に見られる男女の役割行動は、津田さんより上の世代にとっては身体に浸透した無意識のものかもしれませんが、世代間でその捉え方に違いがありそうです。

今でもバラエティ番組でパロディ化されたホームドラマを見ると、お母さんは必ずお盆にお茶をのせて出てきます。サザエさん構造ですね。私の世代もだいたい20代までどっぷりそのジェンダーロールの中にいた感じです。人にとって家族の形は意識の根底にあるものですが、必ずしもこうでなくても良いはずだと気づいてしまって、気づいたことには取り組みたいと素朴に思ったんです。
アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)でアメリカに滞在したとき、日本映画のスクリーニング・プログラムで小津作品の上映があって、ほとんどの観客が中高年で裕福な感じの白人男性だったんです。アジア人は自分1人という状況で「東京物語」を見たら、彼らの反応するところが日本人と違っていることに気づいて。たとえば女性がお盆を持ってスススッとフレームに入ってきて、座卓の空いた隙間にスポッとはまって座る。それだけでみんなすごくウケているんです。これ小津映画の構図がピタっと完成するシーンですよね。

昭和の日本映画って常に男性中心的な視点で展開しますよね。父と娘の目線が拮抗して描かれるのも定石ですが、白人の年配の裕福な男性たちは笠智衆に感情移入できるのでしょうか。

「嫁に行かんのか」みたいな会話のシーンではしんみりした雰囲気になって、みんなシュンと泣きそうになったりして、オイオイみたいな。その素直な感情表現に自分がすごく違和感を覚えたことに気づいたので、それもちゃんと作品化したいと思っています。

そろそろ渡航の機会も増えていますが、このアワードに関連して、海外でのリサーチや制作は考えていますか?

やはり海外の環境で日本の文化がどう見られているかを知る経験もリサーチとして続けていきたいです。あと、ジャドソン・チャーチやキャロリー・シュニーマンといった、1960〜70年代のニューヨーク(NY)のダンスシーンやパフォーマンスについてのリサーチを再開したいです。文献までは十分時間をとって読めていないし、映像資料も見きれなかった感触なので。すごくいいインスピレーションになるので進めたいと思っています。

アメリカでもジェンダー意識に格差があった時代に制作されたパフォーミングアーツから、どういうことを探りたいですか?

今の日本よりは遥かに革新的だった感じがしますね。ジャドソン・チャーチでは現在も毎週パフォーマンスが行われているので、それが始まりからどのくらい変わったのかも気になります。前回の渡米でイヴォンヌ・レイナーのリハーサルや公演を見る機会があったんですが、過去の資料と同じことをしていたんですね。更新しようとしてはいるけれど、まだ60年代と同じことを演っていると知って、自分の中でちょっと落ち着いたところがあって。

この時代に活動を始めたアーティストの多くは、政治や社会制度への反骨心を原動力に、カウンター・カルチャーとして創作していますよね。基本姿勢は変わってないし、未だ何も解決されていないと思ってるのかもしれません。

そうですね、だからやり続けているのかもしれない。いま見ても新鮮ではありますが、変わっていないことを批判的に見る気持ちも出てきたところで前回のリサーチが終わったので、続きをやりたいと思っています。行くとすればNYやロンドンなど資料があって実物に会える場所ですね。
あとはヴェネチア・ビエンナーレ、ドクメンタも見に行きたい。現代の作家の展示ももちろんですが、やはり時間軸を扱うものに今は焦点を当てたいと思っています。

パフォーマンスを制作するような機会はありそうでしょうか。ワークショップとかレジデンス・プログラムの一環でも。

リサーチを制作にどう落とし込むか、まだはっきりと決めていないんですが、パフォーマンスをする機会があればしたいとは思ってます。

パフォーマンス表現をとおして、社会実験的なリサーチを行うような取り組みをしている海外のアーティストの現況も知りたいです。近年日本でも、舞台芸術としてのコンテンポラリーダンスと現代美術のパフォーマンスアートの領域が近づいて、境界がなくなりつつあります。そこに津田さんのように映像メディアを使う作家が関わっていくのは面白い。

展示も経験である、ということを大事にしているんです。展覧会場まで、どういう気持ちでくるのか、どういう道を歩いてくるのか。そういうところからも経験は始まる。トータルで時間や身体を使うパフォーマンスと捉えて作品を作ってみたい。作品自体はスタティックだったとしても、その経験を家に帰って思い出すところまで想像しています。
わざわざ日本家屋に住んでいることもそこに関係しています。生活と展示の空間は違う種類のものではあるけど、長いスパンで見たら、家もまた人が来て去っていくものだから地続きとも言えます。その境界がわからなくなっていくことを作品にできると良いなと。いま住んでいる家を使った作品もこれから考えたいですね。舞台になりそうな部屋がある建物だったのでそこにしたんですよ。

最後にTCAA受賞について感じたことや、このアワードを受賞して生活の中であった変化、新しく始めた活動などはありますか?

若手支援のアワードはたくさんあって、自分もこれまで支えられてきましたが、一気に機会が減る35歳以上の年代にしっかりと支援をいただけることは、素直に心強くありがたいと思います。自分にとって核心的なことをやるべきときだから、きっちりやりきろうと思いました。
30代後半になって大きな仕事が続いたり、副業も増えたり大事になってきたりしました。以前より発言しやすくなっているとも感じます。一緒に制作するスタッフとのコラボレーションをしっかり作りたい。自分に力をつけて人との関係を作りたいと思っています。

津田の映像インスタレーションやパフォーマンスは、鑑賞後になかなか抜けない棘のような感触を残していくことがある。アートの現場が日常と地続きであることを忘れ、観客として守られた気分で油断しているとまんまと虚を突かれるのだ。人間の知覚や身体感覚をめぐる考察に導かれるその鑑賞体験は、私たちの自意識の隙間を浮き彫りにする。
また小津映画の家族の情景のように、日本人が無意識に内面化してきた「ジェンダー」や「構造」についても、津田のクールな視点は容赦なく批評性を発揮する。今後の海外での調査活動では、均質化の進むグローバル社会にあってもなお、異文化の中で際立つ現代日本の死角を抽出するだろう。さらに、20世紀の激動の時代を生きたアーティストたちの軌跡を辿るリサーチも、パンデミックと争乱の時代に生きる人間の問題を炙り出すはずだ。

インタビュー・テキスト:住吉 智恵